信長狂詩曲 第3章 日露戦争

信長狂詩曲 第3章 日露戦争

1642年の東アジア

ゲームの流れを物語風に書き起こしたものです。
桶狭間の戦いに勝利した直後の織田信長で開始したプレイです。

これまでのあらすじ

長らく中国を支配していた明王朝が滅び、中国は混乱の時代を迎えました。織田家は明に代わって周辺諸国を従えていきます。

暴れん坊将軍

明の滅亡から40年以上たっても中国を統一する勢力はあらわれず、終わりなき戦乱の世が続いていました。対照的に海の向こうの日本では織田幕府のもとで人々が太平の世を楽しんでいました。

1677年の東アジア

突然、織田幕府を揺るがす大事件が起こりました。4代将軍が風邪をこじらせると肺炎にかかって急死してしまったのです。将軍の座についてから、わずか3年後のことでした。

この時、織田本家には将軍候補となる男子が一人もいませんでした。織田家滅亡の危機です。

混乱の中5代将軍となったのは、分家筋のデルゲ信康でした。新しい将軍には織田家と婚姻同盟を結んでいたモンゴルの血が流れていました。

その業績から彼はのちに「暴れん坊将軍」の名で庶民に親しまれることになります。

王室間で政略結婚をするのは外交の基本です。ところが、君主が後継者を残さずに死ぬと、今回のように姓(王朝)が変わったり、結婚相手に国を乗っ取られることがあります。

皇国の興廃

織田家の危機はまだ続きます。フィリピン北部に進出したロシアが、台湾を狙って織田家に戦争をしかけてきたのです。

同盟国の呉(ご)は大国ロシアに恐れをなして救援要請を断りました。しかし、危険をかえりみず唯一ロシアに立ち向かった同盟国がありました。モンゴルです。

モンゴルはロシアのすぐ南にある国です。戦争がはじまると大軍で攻め寄せたロシアの前に降伏を余儀なくされました。

そしてついに運命の時が訪れます。織田水軍はヨーロッパからはるばる遠征してきたロシア海軍に宗谷海峡で決戦を挑んだのです。

もしも負ければ、モンゴルを打ち破ったロシア軍がなだれをうって日本に上陸してきます。絶対に負けられません。数でまさる織田水軍に対して性能でまさるロシア海軍、戦力は互角でした。

双方あわせて大小の帆船65隻が激突した宗谷海峡海戦は熾烈を極め、最終的に織田水軍の完全な勝利で幕を閉じました。ロシア海軍は全滅して海の藻屑と消えたのです。

途中で戦闘から逃げることもできます。そのため海戦で全滅というのは非常に珍しいことです。戦力は互角でしたが、指揮官の能力が結果を左右したのかもしれません。

その3年後、ロシアはマニラを日本に譲り、多額の賠償金を支払うことで和平を結びました。

1696年の台湾とフィリピン

友情と打算と

ロシアとの戦争終結からわずか4年後、今度はモンゴルがロシアに攻撃されました。

モンゴルはいまだ敗戦の痛手から回復しておらず、織田家にも陸上でロシア軍と対決できるほどの戦力はありません。

1696年のユーラシア大陸

モンゴルの敗北は誰の目にも明らかでした。しかし、将軍は恩を仇で返すことはできないと言って反対派を黙らせると参戦を決定しました。

将軍の目にはモンゴルを滅ぼしたあと、中国を征服するロシアの姿が見えていました。それだけは避けなければならなかったのです。

予想どおりモンゴル全土が占領されるのに時間はかかりませんでした。しかし、モンゴルの人々は信じていました。織田家が抵抗を続けてくれることを。

そのころ織田水軍はロシア海軍が港から出られないように海上を封鎖していました。ロシア海軍は大敗北からの再建がまにあっておらず、港を出て決戦を挑むだけの戦力を持っていませんでした。

十分な船があれば海上を封鎖することができます。封鎖することで要塞の補給を絶ったり、敵国の収入を減らしたり、沿岸を略奪したりすることができます。

開戦から5年後、根負けしたロシアはモンゴルから撤退して行きました。モンゴルが失ったのは、わずかな領土と賠償金だけでした。

1696年の東アジア