逆襲のバスク 第3章 風雲編

逆襲のバスク 第3章 風雲編

ナバラでプレイした結果を脚色したリプレイ(AAR)です。
後世の歴史家によって書かれた君主中心の年代記という体裁になっています。

本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。

これまでのあらすじ

ナバラ独立戦争を勝利に導き、植民地の拡大に尽力し、
新天地を守るために戦い抜いた偉大な王は世を去った。

王国全体が喪に服する中、先王の政治に不満を持つ貴族たちは、
正統なナバラ王の擁立を目指して武装蜂起の準備を進めていた。

ガルシア6世の治世

1555年

ガルシア6世は先王の喪が明けるのも待たず、
軍隊を動員すると反体制派の弾圧に乗り出した。
尋問に名を借りた拷問は苛烈を極め、獄中で命を落とす者が後を絶たなかった。

謀反を企てたとして獄につながれた有力貴族の一人はこう漏らしたとされる。
「エンリケめがあと三年生きておれば、ナバラに正統なる王が君臨されたものを」

この徹底的な弾圧により、王朝の正統性に疑問を唱える者は姿を消した。

1557年

ガルシア6世は独立以来、長らく敵対関係にあったフランスと同盟を結んだ。
先王エンリケ2世の死により、フランス側の態度が軟化した側面もあったが、
カスティーリャを共通の敵として利害が一致したことが外交に変化をもたらした。

1558年

ジブラルタルの領有をめぐって争っていたイングランドとカスティーリャが講和。
講和条約にはイングランドがナバラとの同盟を破棄することが盛り込まれた。

1560年

この年、ナバラは中南米の熱帯地域で産するココアの交易を独占した。

1563年

2代ナバラ王ガルシア6世は世を去った。享年63歳。
高齢による自然死だったが、獄死した者たちの祟りではないかとの噂が絶えなかった。
王子はまだ若く、王妃カタリナが摂政となった。

ペドロ2世の治世

1570年

成人したペドロ2世がナバラ王に即位し、カタリナは摂政の座を退いた。
ペドロ2世は若くして英邁の誉れ高く、人々はナバラ王国の新たな黄金時代を予感した。

ペドロ2世は即位早々重大な決断を迫られた。
中央アメリカの盟友シウに対して、イングランドが戦争を仕掛けたのである。

シウとの協調路線は、初代国王エンリケ2世が定め、先代が引き継いだ国是であった。
しかし、ペドロ2世は今のナバラにイングランドと戦う力がないことをよく知っていた。

ペドロ2世はシウの使者を謁見もせずに追い返した。
ナバラの後ろ盾を失ったシウは、こののち衰退の一途を辿ることになる。

1571年

ネーデルラント諸州がカスティーリャの支配に対して反乱を起こし、
ネーデルラント連邦共和国を結成。ネーデルラント独立戦争が勃発した。

ペドロ2世は即座にネーデルラントへの支援を表明。
さらにフランスがカスティーリャに宣戦布告するに至って、
風向きをうかがっていた周辺諸国は次々とネーデルラントに合流した。

1574年

ナバラの探検隊が黄金の国ジパングと伝えられる極東の島国・日本に到達した。

1575年

ペドロ2世は外交政策の大転換を宣言。
フランスとの同盟を破棄すると、イングランドと同盟を結んだ。

1576年

カスティーリャがネーデルラント、フランスに相次いで敗北。
ネーデルラントは独立し、カスティーリャの旧ブルゴーニュ領は消滅した。
フランスは領土をピレネー山脈の南にまで拡大。ナバラ本国を取り囲んだ。

1581年

3代ナバラ王ペドロ2世が急死。享年26歳。
将来を嘱望された王は若くして世を去り、王妃カタリナが摂政となった。

フアン3世の治世

1586年

成人したフアン3世がナバラ王に即位し、カタリナは摂政の座を退いた。
フアン3世は先王の血を受け継ぎ、幼少より非凡の才を発揮したとの逸話が残る。
ナバラ王国の人々はその治世が長く続くことを祈った。

1590年

イングランドが中央アフリカの植民地をめぐり、現地のクバ王国と戦争をはじめた。
イングランドから援軍を求められたフアン3世は、陸軍の主力部隊をアフリカへ派兵した。

攻撃側:イングランド、ナバラ、他
防御側:クバ、他

1592年

ナバラ軍の主力部隊はアフリカの密林でクバ軍の襲撃を受け、
数と地の利でまさる敵に手痛い敗北を喫した。
敗走を余儀なくされたナバラ軍は、密林の奥地で完全に退路を断たれた。

全滅を覚悟したナバラ軍であったが、現地指揮官の奮戦で包囲網の突破に成功。
奇跡的にカリブ海への帰還を果たした。フアン3世は生還者を英雄として大いに讃えた。

1593年

フアン3世は東洋に使者を送り、明、日本と相次いで同盟を結んだ。

この年、22歳でまだ独身だったフアン3世は、1歳年下の庶民の娘カタリナに心を奪われた。
相思相愛の関係になった二人は、保守的な貴族の反対を押し切って結婚した。
この結婚は国民に祝福され、新しい王妃は庶民から親しみをもって迎えられた。

1596年

フアン3世と王妃カタリナの間に嫡子フランシスコが誕生した。

1597年

8年におよぶクバ王国との戦争がようやく終結した。

1599年

ナバラ艦隊が初の世界一周航海に成功。艦隊は丸二年かけて世界一周の偉業を成し遂げた。

1602年

教皇はナバラ王妃カタリナが異端であることを理由に婚姻の無効を宣言した。
フアン3世は教皇への対抗措置として上訴禁止法を制定。
教皇とフアン3世の対立は決定的なものとなった。

1604年

カリブ海に初めてフランスの私掠船が出現。
以後、カリブ海ではフランスの私掠船とナバラ艦隊の飽くなき攻防が繰り広げられた。

1606年

ポルトガルがモロッコの攻勢を受けて本国の半分を喪失。外交的にも孤立した。
フアン3世はこの好機を見逃さず、ポルトガルに宣戦布告した。

攻撃側:ナバラ、他
防御側:ポルトガル、他

1609年

ポルトガルの首都ポルトで講和条約が結ばれ、戦争はナバラの完全勝利に終わった。
ポルトガルは残る本国領土をすべてナバラに割譲し、南アメリカに落ち延びた。

1615年

この年、ナバラ王国でタバコのプランテーションが初めて建設された。

1617年

植民地の拡大を目論むイングランドは、西アフリカのヌペ族に対して戦争を仕掛けた。
ヌペ族はモロッコと盟約を結んでおり、モロッコと旧ポルトガル領は地続きだった。
イングランドに援軍を求められたフアン3世は、モロッコと戦うことを決断した。

攻撃側:イングランド、ナバラ、他
防御側:ヌペ、モロッコ

1620年

ナバラ海軍はジブラルタル海峡を封鎖し、モロッコ軍のヨーロッパ侵攻を阻止した。
戦争はイングランド側の全面勝利で幕を閉じ、ナバラはモロッコ領の一部を獲得した。

1622年

フアン3世は対フランスで利害が一致したボヘミアと同盟を結ぶことに成功した。

1623年

ナバラの裏庭だった南アメリカにイングランドが侵略の矛先を向けた。
伝説の黄金郷の征服が目当てであった。続いてフランスも侵攻を開始した。

1631年

イングランドとフランスが南アメリカに侵攻したことに危機感を持ったフアン3世は、
一向に文明化しないカハマルカに見切りをつけ、自ら征服する意志を固めた。
フアン3世はカハマルカに使者を送ると盟約の破棄を通告した。

1635年

明が日本への侵攻を開始した。
はるばる海を越えて日本から救援を求める使者が訪れたが、フアン3世は使者を追い返した。

1636年

フアン3世はかつての盟友カハマルカに自ら手を下すことを決断した。

攻撃側:ナバラ
防御側:カハマルカ

南アメリカではイングランド、フランスに続き、ポルトガルが起死回生の大攻勢中だった。
カハマルカの文明化を待つ猶予はもはや残されていなかった。

1638年

ナバラ軍の前にカハマルカは成す術もなく全面降伏、領土の半数を失った。
フアン3世は一度は滅亡したキト、チムーを再興すると、ナバラ王国の属国とした。

1639年

フアン3世はイングランドの助けを借り、再びポルトガルに宣戦布告した。

攻撃側:ナバラ、イングランド、他
防御側:ポルトガル、他

1640年

王妃カタリナが死去。享年68歳。
庶民の出でありながら王妃となり、国民に広く愛されたカタリナ妃は夫を残して先立った。

宿営地で訃報に接したフアン3世は、沈黙してしばし天井を見上げたのち、
何事もなかったかのように指揮を執り続けたという。

1641年

ポルトガルとの戦争はナバラ側の完全勝利に終わった。
歴史家の多くは、この戦争を境にナバラが列強の仲間入りをしたと考えている。

1643年

4代ナバラ王フアン3世は王妃カタリナの後を追うように世を去った。享年72歳。
狩猟中の事故であった。46歳の嫡子フランシスコ1世が国王の座を継承した。