逆襲のバスク 第4章 飛翔編

ナバラでプレイした結果を脚色したリプレイ(AAR)です。
後世の歴史家によって書かれた君主中心の年代記という体裁になっています。
本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家などとは一切関係ありません。
これまでのあらすじ
ナバラ王国に重商主義を確立し、大国ポルトガルを破り、列強の座を勝ち取った偉大な王は、
王妃の後を追うように世を去った。
イベリア半島に帰還を果たしたナバラは、カスティーリャ、フランス、教皇と対立する一方、
植民地拡大戦争への協力を通じてイングランドとの間に強固な信頼関係を築いていた。
フランシスコ1世の治世
この年、ナバラ商人がイエメン商人に代わってコーヒー交易を支配した。
プエルトリコに建設されたプランテーションがその原動力となっていた。
フランシスコ1世は属国キトの旧領回復を大義名分に再びカハマルカを攻めた。
翌年、カハマルカは全面降伏。かつての盟友は事実上滅亡した。
ヨーロッパに衝撃が走った。フランスがスコットランドを併合したのである。
スコットランドはフランスの属国となることでイングランドによる征服を免れていた。
ナバラ王国も独立戦争に失敗していれば、同じ道を辿ったであろう。
フランシスコ1世は黄金郷の征服を目論み、ポルトガルに宣戦布告した。
攻撃側:ナバラ、他
防御側:ポルトガル、他
再びヨーロッパに激震が走った。今度はカスティーリャがアラゴンを併合したのである。
フランシスコ1世はポルトガルとの戦争が終わるのを待たず、
カスティーリャの攻撃を受けて疲弊していたモロッコに宣戦布告した。
攻撃側:ナバラ、他
防御側:モロッコ
ポルトガルが全面降伏。ペルーの黄金郷はナバラ王国の支配下に入った。
ナバラ軍の主力が北アフリカでモロッコ軍の奇襲を受け、砂漠で孤立。
一時は全滅を覚悟するも、海軍と連携して海上に脱出し、九死に一生を得た。
フランシスコ1世はモロッコに使者を送り、有利な条件で講和を結ぶことに成功。
モロッコは旧ポルトガル領を放棄し、ここに二度めのレコンキスタが完成した。
この年、フランシスコ1世は長年にわたる交渉の末、オスマン帝国と同盟を締結した。
教皇との対立が続く中、フランシスコ1世は自ら戴冠。ナバラ帝国の樹立を宣言した。
この時、皇帝フランシスコ1世は67歳。ナバラの歴史は新たな段階に入った。
皇帝フランシスコ1世にネーデルラント連邦共和国から書簡が届いた。
いわく「貴殿の悪行はアイルランドから中国まで知れ渡っているのをご存知か?」
皇帝は激怒すると書簡を破り捨て、即座にネーデルラントとの戦争準備を命じた。
ペルーの統一を目指す皇帝フランシスコ1世は、
カハマルカの残党を支援していることを名目にチャルカへ攻め込んだ。
圧倒的な技術力の差を背景に、ナバラ軍は連戦連勝を重ねた。
翌年、チャルカは降伏。カハマルカは滅亡し、ペルーの統一は達成された。
ナバラ帝国はこの年までに属国であるチムーとキトを併合した。
皇帝フランシスコ1世は上訴禁止法を撤廃。
先代フアン3世以来68年間にわたり続いてきた教皇との確執を歴史的和解に導いた。
教皇はフランシスコ1世の戴冠を公に認め、フランシスコ1世は名実ともに皇帝となった。
初代ナバラ皇帝フランシスコ1世が崩御。享年74歳。
皇太子は昨年病死しており、26歳の皇后ブランカが摂政となった。
ブランカの治世
摂政ブランカは、亡き皇帝の遺志を継ぎ、ネーデルラント領コロンビアに宣戦布告した。
ネーデルラント本国は他の戦争のさなかであり、植民地に援軍を送らなかった。
翌年、戦争はナバラの勝利で終わり、ネーデルラント領コロンビアは帝国に併合された。
摂政ブランカは、陸軍の大規模再編と帝国全土を網羅する要塞網の建設を命じた。
摂政ブランカは、イングランド、オスマン、明の支援を取り付けると、
カスティーリャに対して全面戦争を挑んだ。
攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、明、他
防御側:カスティーリャ、ポルトガル、他
戦争はナバラ海軍の奇襲作戦ではじまり、カスティーリャ本土は瞬く間に完全占領された。
南北アメリカの植民地を巻き込んだ大戦争はナバラ側の決定的勝利で幕を閉じた。
ナバラはイベリア半島西部を獲得すると、レオン王国を再興し、傀儡国家とした。
2代皇帝ゴドフレド1世が即位。摂政ブランカはその地位を退いた。
ゴドフレド1世の治世
16歳の皇帝ゴドフレド1世は、同盟国イングランドから8歳年上の皇后エリザベスを迎えた。
ゴドフレド1世とエリザベスの間に皇太子アンドレスが誕生。
オスマン帝国がオーストリアと開戦。同盟国であるナバラも参戦した。
攻撃側:オスマン、ナバラ、他
防御側:オーストリア、カスティーリャ、他
ナバラ軍は再びカスティーリャ本土を瞬く間に占領。
遭遇戦で窮地に陥ったナバラ軍をレオン王国軍の精鋭5千人が救援。伝説となった。
ナバラ帝国はレオン王国を併合。伝説の5千人は新設された近衛兵連隊の中核となった。
この年、シウが滅亡。中央アメリカの地図から先住民国家が消えた。
戦争がオスマン側の優位で進む中、帝国内では騒動が持ち上がっていた。
当初はナバラ臣民に慕われていた皇后エリザベスだったが、
聖公会の信仰を放棄していないとの噂から、婚姻の無効を主張する声が上がったのだ。
皇太子はまだ6歳。ゴドフレド1世は臣民の声を無視して皇后と添い遂げる道を選んだ。
オーストリアがオスマンに全面降伏。ナバラ帝国はカスティーリャ領の半分を獲得した。
この年、カリブ海は世界最大の交易地となった。
新大陸の産物と旧大陸の商品は、すべてカリブ海を経由して取引された。
その重要性は今やヴェネツィアやジェノヴァを上回るほどになっていた。
皇帝ゴドフレド1世は大交易商テオバルドを財務尚書に登用した。
以後、財務尚書は代々交易商出身者が勤めることが慣例となった。
皇帝ゴドフレド1世はチュニスに使者を送り、盟約を結んだ。
この頃、帝国はバルバリア海賊の襲撃に悩まされており、
チュニスに海賊を取り締まらせることも盟約の目的だった。
この年、帝国首都でささいな事件が発生した。
17歳の皇太子アンドレスは先住民と親密になっていたが、
それに不満を持つ一部貴族が皇太子を排除する陰謀を企てたのだ。
皇帝ゴドフレド1世は陰謀に関わった者を厳罰に処した。
皇帝ゴドフレド1世はロシア帝国と同盟を結んだ。
この時ナバラの同盟国は、イングランド、ロシア、オスマン、ボヘミア、チュニス、明。
宿敵フランスに対する包囲網は完成した。これを第一次対仏大同盟と呼ぶ。
皇帝ゴドフレド1世はバスク人の解放を掲げ、
ナバラ独立記念日の6月4日を期してフランスに宣戦を布告した。
ナバラ側の戦力は陸軍で3倍、海軍で2倍と、フランス側を大きく上回っていた。
攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、ボヘミア、他
防御側:フランス、他
皇帝ゴドフレド1世のもとには各地から戦勝報告が届いていた。
ナバラ軍はピレネー山脈を越え、フランス本土に侵攻を開始した。
しかし、そこに飛び込んできた知らせが皇帝を凍りつかせた。
狩猟中の事故が元で皇太子アンドレスが死亡したのだ。享年20歳であった。
この時、皇帝40歳。皇后48歳。後継者は他にいなかった。
三年前に起きた陰謀の残党による暗殺ではないかとの噂がまことしやかに囁かれた。
ナバラ軍がフランスの首都パリを急襲。
パリはあっけなく陥落し、ヴェルサイユ宮殿で講和条約が結ばれた。
フランスはイベリア半島を放棄し、ナバラ帝国の領土はついに本国と地続きになった。
講和条約が結ばれた夜、皇帝ゴドフレド1世は皇后エリザベスを裏切った。
不貞の罪を犯したのだ。そして誕生した子は娘であった。
皇帝は彼女レオノールを皇太子に指名したが、彼女は不貞の子と呼ばれることになった。
皇帝ゴドフレド1世はバスク人の完全な解放を掲げ、カスティーリャに宣戦を布告した。
攻撃側:ナバラ、イングランド、チュニス、他
防御側:カスティーリャ、ポルトガル、他
戦争がナバラ側の優勢で進む中、明はナバラに同盟の破棄を通告した。
この時、明はロシアと敵対しており、同盟の維持は困難になっていた。
カスティーリャはナバラに全面降伏。
ナバラ帝国の旗の下、イベリア半島の統一は完成し、臣民は皇帝万歳を叫んだ。
ナバラ経済の基礎を築き上げた財務尚書テオバルドが死去。
ゴドフレド1世は後任に貿易商出身のフェルナンドを登用した。
この頃、皇帝ゴドフレド1世は征服と浪費に傾倒するようになっていた。
皇帝は財務尚書フェルナンドの諫言も聞かず、莫大な国費を投じて大宮殿の造営を命じた。
そればかりか、皇帝ゴドフレド1世は征服を目的としてフランスに宣戦を布告した。
この戦争がナバラ初の帝国主義戦争とされる。これを第二次対仏大同盟と呼ぶ。
ナバラ側の戦力は陸軍で4倍、海軍で3倍と、フランス側を圧倒的に凌駕していた。
攻撃側:ナバラ、イングランド、オスマン、ボヘミア、チュニス、他
防御側:フランス、他
第二次対仏大同盟はナバラ側の完全勝利に終わった。
講和条約が結ばれ、フランスは首都パリを含む本国の中心部を失った。
皇帝ゴドフレド1世はガスコーニュ公国を創設し、帝国の傀儡国家とした。
この年、ナバラ帝国で大臣が全員辞表を提出する騒ぎが起きた。
終わりのない戦争に抗議する大臣たちを前にして、皇帝はこう吐き捨てた。
「余はナバラそのものである」
財務尚書フェルナンドはなおも食い下がった。
戦争はナバラ経済を蝕んでおり、国家財政は破綻寸前であると。
皇帝ゴドフレド1世は渋い顔をすると、貨幣の改鋳を命じた。
さらにこの年、オスマン帝国がコモンウェルスに宣戦布告した。
オスマンより援軍を求められると、皇帝は二つ返事で承諾した。
攻撃側:オスマン、ナバラ、他
防御側:コモンウェルス、オーストリア
帝国国内で反乱が立て続けに発生した。
フランスの諜報員が背後で反乱を扇動していることは明らかであった。
最前線の指揮官から、兵士の脱走が相次いでいるとの報告が届きはじめた。
長引く戦争と反乱の続発により、帝国の予備兵力はついに底を尽いた。
皇后エリザベスが死去。享年68歳。
晩年の皇后は皇帝と不仲になり、不遇な後半生だったと伝えられる。
コモンウェルスがオスマンに大敗北を喫し、戦争は終結した。
講和条約が結ばれた直後、オスマン帝国で政変が発生。
オスマンの新政権はナバラとの同盟関係を一方的に破棄した。
ナバラ帝国とオスマン帝国の間で緊張が高まる中、オスマンがボヘミアに宣戦布告。
同盟国ボヘミアから救援を求められた皇帝ゴドフレド1世は勇み立ったが、
大臣全員の猛反対を受けて、渋々オスマンとの決戦を断念した。
この時、オスマン側にはロシアが参戦しており、
ボヘミアを救援することは、ロシアとの同盟を破棄することを意味した。
ナバラの同盟国は、イングランド、ロシア、チュニスの三カ国にまで減っていた。
この年、2代皇帝ゴドフレド1世が崩御。高齢による自然死だった。享年65歳。
新たに至尊の冠を戴くことになったのは24歳の女帝レオノール1世であった。
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