マリア 第2章 ハプスブルク帝国

マリア 第2章 ハプスブルク帝国

オーストリアでプレイした結果を脚色したリプレイ(AAR)です。
後世の歴史家によって書かれた年代記の体裁になっています。

本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家とは一切関係ありません。

これまでのあらすじ

オーストリアのハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝を世襲し、帝国の改革を推し進めていた。北イタリアへ進出したオーストリアは、交易によってもたらされる富と、富に支えられた軍事力を獲得する。一方、ドイツでは宗教改革の嵐が吹き荒れていた。異端諸侯は改革の障害となるばかりでなく、ヨーロッパを二分する大戦争の原因となりかねなかった。

ヨーゼフ1世の治世

ヨーゼフ1世は熱心なプロテスタント信者であったが、兄が死に次の皇帝候補となるとその信仰を捨てた。改宗後は敬虔なカトリック信者となり、逆にプロテスタントを弾圧する側に回った。

ヨーゼフ1世が皇帝に即位すると、伝統的にプロテスタントの影響力が強いボヘミアで信仰の自由を求める運動が起こった。しかし、皇帝はこれを反乱とみなし徹底的に弾圧した。

1611年

ヨーゼフ1世はその後も帝国各地で宗教戦争を繰り広げていたが、そこにさらなる神の試練が訪れた。異教徒オスマンがヨーロッパに大侵攻を開始したのである。オスマンの侵略に立ち向かったのは、オーストリア、スペイン、ポルトガル、教皇領からなるカトリック連合であった。

緒戦、オーストリア軍はオスマン軍に野戦を挑むも、3倍の兵力を擁するオスマン軍の前に大敗を喫する。首都ウィーンは包囲され、守備軍の激しい抵抗と折からの大雪にもかかわらず翌年には陥落。オーストリア軍は要塞化したアルプス山脈まで後退し、徹底抗戦を続けた。

アルプスの山中に籠ること3年。オスマン軍の補給線が限界に達したと見るや、オーストリア軍は反撃に転じた。友軍の来援もあり、オーストリア軍はウィーンを奪還。反転攻勢に出たカトリック連合はついに勝利を収めた。

1627年

異教徒の撃退により、キリスト教世界は結束を強めた。オスマンとの講和から2年後、まだ戦乱の傷跡が癒えぬウィーンで帝国議会が開かれ、カトリックが神聖ローマ帝国の正式な信仰であることが確認された。ヨーロッパを二分する大戦争は未然に回避され、皇帝には異端諸侯にカトリックへの改宗を命じる強い権限が与えられた。

オーストリア黄金時代の礎を築いたヨーゼフ1世は腫瘍の破裂により崩御した。生涯を通じて帝国の宗教的統一に腐心し、ドイツの宗教紛争を終結に導いた。享年68。

エルンスト2世の治世

エルンスト2世は幸運と不運を同時に持ち合わせた皇帝として知られる。

1651年

戴冠後まもなく、強固な同盟者であったポーランド王が後継者を残さぬまま死去。遺言により王位を譲られたエルンスト2世は、オーストリア大公、ボヘミア王、ハンガリー王に加えて、ポーランド王を兼ねることになり、ハプスブルク家は東欧における版図を飛躍的に拡大した。

しかし、これに異議を唱えたのがポーランド王家と婚姻関係にあったイギリスである。イギリスはポーランドの王位継承権を主張してオーストリアとの同盟を一方的に破棄。ここにポーランド継承戦争が勃発した。この時イギリスは、三百年戦争に勝利してフランス全土を支配下に置いていた。

エルンスト2世は継承戦争のさなか食中毒にかかり、不運なことにそのまま帰らぬ人となった。享年63。

カール1世の治世

カール1世はポーランド継承戦争をオーストリアの勝利に導くと、イギリスからパリを奪取した。さらに、ボヘミア王国、ハンガリー王国をオーストリア大公国に併合。新生オーストリア王国の成立を宣言した。

1661年

皇帝は宮廷裁判所の改革に着手し、その完成を見届けると永遠の眠りについた。カール1世の下でハプスブルク帝国は盤石となり、その地位を揺るがすものは地上のどこにも存在しなかった。享年63。

ヨーゼフ2世の治世

若くして皇帝となったヨーゼフ2世は皇后との間に一人息子をもうけた。幼子を溺愛していた皇帝であったが、流行り病に罹った後継者はわずか2歳で天に召されてしまう。

ヨーゼフ2世は日記にこう記している。

葬儀の後、若い女中が余を誘惑した。あれは女中に化けた悪魔に相違ない。余の息子を奪うだけでは飽き足らず、余の魂をも奪おうというのか。

敬虔なカトリック信者であるヨーゼフ2世は若い女中に見向きもしなかった。

その翌年、ヨーゼフ2世は食中毒が元で急死する。正統な後継者はおらず、盤石であるかに思われたハプスブルク帝国はいとも簡単に崩壊した。享年18。