マリア 第3章 双頭の鷲

マリア 第3章 双頭の鷲

オーストリアでプレイした結果を脚色したリプレイ(AAR)です。
後世の歴史家によって書かれた年代記の体裁になっています。

本文中の出来事はすべてフィクションです。実在の人物・団体・国家とは一切関係ありません。

これまでのあらすじ

オーストリアのハプスブルク家は代々神聖ローマ皇帝を世襲し、帝国の改革を推し進めていた。オスマンの侵略を撃退し、ヨーロッパを二分する宗教戦争を未然に防いだ今、ハプスブルク帝国は盤石であると思われた。しかし、ハプスブルク家の当主が後継者を残さず夭逝したことで事態は急変する。

マティアス1世の治世

断絶したハプスブルク家に代わってオーストリアの王となったのは、トラスタマラ家のマティアス1世である。トラスタマラ家はスペインの王朝で、これは長年にわたる結婚政策の結果であった。

新たな神聖ローマ皇帝には、選帝侯の支持を受けたブランデンブルク王クリスティアン1世が選ばれた。オーストリアは皇帝の地位を失い、単なる一選帝侯となった。

新皇帝は帝国改革を推進し一般帝国税を制定すると、次なる改革として永久ラント平和令を発布する準備に入った。それが実現すれば帝国内での戦争が禁止され、オーストリアが武力でブランデンブルクを打倒することは不可能になる。オーストリアにとっては危機的な状況であった。

1684年

帝国の情勢が風雲急を告げる中、ハプスブルク家の正統な後継者が見つかった。それは生まれたばかりの赤子で、しかも女児であった。先帝が崩御した時、彼女はまだ母親の胎内におり、ゆえに継承権を持たなかったのだ。

自由な思想の持ち主であったマティアス1世は、動揺するオーストリア国内をまとめるため、マリア・マルガレーテ・フォン・ハプスブルクと名付けられた赤子を自らの後継者に指名した。しかし、この決断は国内にさらなる混乱を招くことになる。

各地で反旗を翻した貴族との終わりなき戦いが続く中、マティアス1世は世を去った。享年28。唯一の後見人を失い、あとに残されたマリアはわずか7歳であった。

摂政ミリアムの治世

幼いマリアの摂政となったのは、ブランデンブルク王家から嫁いだ前の王妃ミリアムである。

マリアに対するミリアムの態度は冷淡だったが、マリアが廃嫡されることはなかった。理由は諸説あるが、帝位の継承を確実にしたい実家の意を受けたものとする説が有力である。神聖ローマ皇帝となる資格があるのは男性だけであり、マリアがオーストリアの王位継承者である限り、ブランデンブルクの帝位は安泰なのであった。

マリアが13歳の時、皇帝クリスティアン1世が崩御した。次の皇帝に即位したのは若干15歳のブランデンブルク王ヨハン・ジークムント1世で、マリアは皇帝候補にすらなれなかった。新皇帝は永久ラント平和令を発し、帝国内での戦争を全面的に禁止した。

摂政ミリアムは没落したフランスを征服して属国とした。その目に映るのは実家ブランデンブルクがオーストリアを従え、神聖ローマ帝国を再興する姿であった。

1694年

マリア・マルガレーテ1世の治世

マリア・マルガレーテ1世は15歳でオーストリア女王に即位した。2歳年上の皇帝ヨハン・ジークムント1世は、帝位の世襲を宣言する準備を進めていた。それが成功すればオーストリアは二度と皇帝に復位できず、外交的にブランデンブルクを打倒する機会を永遠に失うことになる。

マリアは賭けに出る決意を固めた。のちに回顧録で語っている。

あの時は大敗北を覚悟していました。あえて帝国に外敵を招き入れ、皇帝の権威を失墜させるつもりだったのです。

オーストリアはオスマン、ムガル両帝国に宣戦を布告した。マリア22歳の決断である。

オスマン領内に雪崩れ込んだオーストリア軍は、抵抗らしい抵抗を受けぬまま首都コンスタンティノープルを占領。かつてのウィーン包囲が嘘のような連戦連勝で、ムガルは早々と戦争から脱落、オスマンは国土の大半を差し出して講和を求めた。

1706年

オーストリア史上空前の大征服を成し遂げながらも、マリアの気持ちは晴れなかった。帝国におけるブランデンブルクの優位は変わっておらず、マリアがオーストリア女王である限り帝位を奪うことは叶わないのである。

マリアは再び重大な決断を下した。女王即位20年の祝賀式典の場で突然自らの退位を宣言したのだ。この時マリアは35歳だった。

フランツ1世シュテファンの治世

次のオーストリア王に即位したのはマリアの息子フランツ1世シュテファンであった。退位したとはいえマリアの存在はあまりにも大きく、依然として実権を握っていた。

マリアの退位から4年後、好機が到来した。皇帝ヨハン・ジークムント1世が崩御し、選帝侯によってフランツ1世シュテファンが神聖ローマ皇帝に選ばれたのである。

皇帝崩御の報に接したマリアは一言こう呟いたと伝えられる。

勝ったわ。

新皇帝フランツ1世シュテファンは帝国議会を招集。全諸侯に帝位の世襲諸侯特権の廃止を認めさせると、高らかに神聖ローマ帝国の再興を宣言した。皇帝万歳が叫ばれ、双頭の鷲の旗の下、諸侯の寄せ集めであった神聖ローマ帝国は再び一つになった。

1722年

後日譚

マリアは次代皇帝の治世まで国政において重きをなした。政治に直接口を出すことこそなかったが、外交上の重要な局面では常に的確な助言を与え続けた。

マリアの存命中に、ポーランドとフランスが帝国に統合された。キール運河が誕生し、オスマンでは革命が成立した。国母マリア・マルガレーテ1世は大勢の子供たちに見守られながら安らかに没した。享年75。

当時の哲学者ヴォルテールはこう述べている。

かつて神聖ローマ帝国と呼ばれ、今なおそう呼ばれ続けているこの集団は、いかなる意味においても神聖で、ローマ的で、帝国であった。

1756年

ここまでお読みいただいた方には、こちらのリプレイ(AAR)もお勧めします。
  逆襲のバスク
  灼熱の駱駝騎兵